コリントのクリスチャンへの第一の手紙 15:1-58
脚注
注釈
良い知らせを固く信じているなら: コリントでキリスト教の「初歩の教理」である復活に対して否定的な見方がされていた。(ヘブ 6:1,2)「死者の復活などない」と主張する人がいた。(コ一 15:12)パウロは,「食べたり飲んだりしましょう。明日には死ぬからです」という意見に触れている。(コ一 15:32)イザ 22:13を引用しているのかもしれないが,この言葉は死後の命を否定するエピクロスなどのギリシャの哲学者の影響を受けた人の考えをよく表している。(使徒 17:32。コ一 15:32の注釈を参照。)会衆の中のユダヤ人という背景を持つ人たちの一部は,復活を否定するサドカイ派の信条に影響を受けていたのかもしれない。(マル 12:18)もしくは,クリスチャンは生きていながら既にある種の復活を経験したと感じていた人もいた可能性がある。(テモ二 2:16-18)コリントの人たちが「良い知らせを固く信じて」いなかったなら,クリスチャンになったことは無駄になり,その人たちの希望は実現しなかった。コ一 15:12の注釈を参照。
ケファ: ペテロの別名。(コ一 1:12の注釈を参照。)イエスは,弟子たちが集まっている所に現れる前に,独りでいたと思われるペテロの前に現れた。(ルカ 24:34)ペテロはそのように個人的に会って,とても慰められたことだろう。その時,必要な指示を受けるとともに,イエスとの関係を3度否定したことを許されたと確信したに違いない。マル 16:7の注釈を参照。
12人: 「12人の前に」現れたというのは,トマスも一緒にいたヨハ 20:26-29の時のことだったようだ。そうであれば,「12人」というのはここで,1人か2人いなかったとしてもグループとしての使徒たちを指していた。(ヨハ 20:24。使徒 6:1-6)イエスが現れたことは,使徒たちにとって,恐れを乗り越えてイエスの復活について大胆に語る上で助けになったに違いない。
キリストは一度に500人以上の兄弟の前に現れました: イエスの弟子たちのほとんどはガリラヤにいたので,復活したイエスが「500人以上の兄弟」の前に現れたのは,マタ 28:16-20の時のことだったかもしれない。(マタ 28:16の注釈を参照。)その中には,復活したイエスがガリラヤで弟子たちの前に現れると天使から告げられた女性たちもいたと思われる。(マタ 28:7)そこにいた人たちのほとんどは,パウロがこのコリント第一の手紙を書いた西暦55年にはまだ生きていた。それでパウロはイエスの復活を疑う人たちに,それを確かな事実だと証言できる目撃証人がいることを伝えていた。
死の眠りに就いた: 使徒 7:60の注釈を参照。
ヤコブ: このヤコブは,イエスの養父ヨセフとイエスの実の母親マリアの息子のことだと思われる。イエスが復活する前,ヤコブは信者ではなかったようだ。(ヨハ 7:5)パウロはイエスがヤコブの前に個人的に現れたことを述べていると思われ,それでヤコブは,兄イエスが本当にメシアであることを確信できたようだ。ヤコブは信者になり,自分の他の兄弟たちがそうなることにも一役買ったのかもしれない。(使徒 1:13,14)
あたかも早産で生まれた子の前に現れるかのように: 「早産で生まれた子」と訳されているギリシャ語は,突然,衝撃的に,ふさわしくない時に生まれた子を指せる。パウロはこの語を比喩的な意味で使い,復活したイエスがダマスカスへの道で自分の前に現れて,自分がクリスチャンになった時のことを述べている。ここでこの語は幾つかの意味に理解できる。パウロは,自分が一時的に目が見えなくなり改宗したことは,自分だけでなく他の人たちにとっても予期していない衝撃的なものだったということを言っていたのかもしれない。(使徒 9:3-9,17-19)あるいは,自分が比喩的にクリスチャンとして生まれた(つまり,改宗した)のが,前の数節に出てくる人たちとは違ってふさわしくない時だった,つまりイエスがすでに天に復活した後だったということを言っていたのかもしれない。または,自分は与えられた素晴らしい務めに値しないということを認め,自分のことを謙遜に語っていたのかもしれない。これは,コ一 15:9,10で述べていることと合っている。いずれにしても,パウロは明らかに,復活したイエスを見た経験を貴重なものと見ていた。それは,パウロにとってイエスが復活したことをはっきり示すものとなった。(使徒 22:6-11; 26:13-18)
今の私があるのは,神の惜しみない親切のおかげです: パウロはここで,自分がエホバへの奉仕で成し遂げたどんなことも自分の功績にはできないことを謙遜に認めている。そのことを強調するために,この節で神の「惜しみない親切」に3回言及している。(用語集の「惜しみない親切」参照。)その点を強調した上で,ほかのどの使徒よりも多く働きましたと述べている。パウロは,もともとクリスチャンを迫害していた自分を使徒に選んでくれた神の憐れみに感謝していた。(テモ一 1:12-16)感謝を表すために大きな熱意を持って働き,自分の務めを果たした。陸路や海路で長い距離を旅して良い知らせを広め,多くの会衆を設立した。宣教に関連して,ギリシャ語聖書の一部となる14通の手紙を聖なる力に導かれて書いた。また,エホバはパウロに別の言語を話す能力を与え,幻を見せ,復活を含め奇跡を行う能力を与えた。(使徒 20:7-10。コ一 14:18。コ二 12:1-5)パウロは自分の奉仕とこのような祝福全てをエホバからの惜しみない親切と見ていた。
皆さんの中に,死者の復活などないと言う人がいる: もしこの言葉が真実であれば,地上で再び生きるという希望を持って死んだ人はずっと死んだままになる。(マタ 22:31,32。ヨハ 11:23,24。コ一 15:2の注釈を参照。)天に行くよう選ばれたクリスチャンは天に行けないことになる。なぜなら,天での命に復活するには1度死ななければならないから。(コ一 15:35-38。コ一 15:36,38の注釈を参照。)パウロが述べたように,もし復活が起きないのであればクリスチャンの信仰は目的のない無駄なものになる。(コ一 15:13,14)それで,復活の希望をしっかり擁護した。ここでは天に行くクリスチャンの希望に注目している。
復活: マタ 22:23の注釈を参照。
キリストが生き返らされなかったとすれば: 復活の希望はクリスチャンの信仰の土台の一部で,「初歩の教理」。(ヘブ 6:1,2)もしイエスが復活しなかったとしたら,大祭司としての非常に重要な1つの務めを果たすこと,つまり天でエホバに自分の贖いの犠牲の価値を差し出すことはできなかっただろう。(ヘブ 9:24)キリストの復活は,神の主権,名前,王国,また人類の救いなど,聖書の基本的な教えとも切り離せない。(詩 83:18。マタ 6:9,10。ヘブ 5:8,9)
私たちは神について偽りの証言をしてきたことになります: パウロはここで,復活を否定することがさらに何を意味するかに注意を向けている。その教えが偽りであれば,パウロと仲間の伝道者はイエスの復活だけでなく,その奇跡を行う方エホバ神についてもうそをついたことになる。
皆さんは罪を許されていないことになります: 復活を否定するなら,ほかにも影響がある。キリストが生き返らされなかったとすれば,神に贖いが支払われなかったことになる。そうであれば,不完全な人間は罪を許されておらず,買い戻されたり救われたりする希望もないことになる。(ロマ 3:23,24。コ一 15:3。ヘブ 9:11-14)
滅びたことになります: 復活の希望がうそであれば,殉教した人も含め亡くなったクリスチャンは,復活があるという偽りの希望にだまされて永遠に滅びたことになる。
私たちは誰よりも惨めになります: 使徒パウロや他のクリスチャンたちが損害に耐え,迫害に遭い,苦難を忍び,死に面したのは,復活を信じていたから。復活の希望に何の根拠もなかったなら,クリスチャンは最も惨めな存在だった。この点は,キリストが復活しなかったとすれば真実になってしまう残念な事柄の最後に挙げられている。(コ一 15:13-19)しかし,パウロは明らかに,こうした事柄はあり得ないと考えていた。続く20節で,「しかし,キリストは生き返らされ……た」と述べている。
死の眠りに就いた人たちの中で最初に復活した方: 「最初に復活した方」という表現は字義通りには「初物」を指す。(用語集の「初物」参照。)イエスは西暦33年のニサン16日に復活させられた。それは最初に収穫した穀物の初物をユダヤ人の大祭司がエホバの前に差し出す日だった。大祭司は大麦の収穫の初物,言い換えれば,その土地の初物のうちの最初のものを揺り動かした。(レビ 23:6-14)その束は復活したイエス・キリストを予表していた。イエスは,天での永遠の命へと生き返らされた最初の人だった。イエスを「初物」と言っていることから,さらに収穫がある,つまりさらに天に生き返らされる人たちがいることが分かる。(コ一 15:23)
キリストの臨在の間に: この語はマタ 24:3で初めて使われていて,そこで弟子たちがイエスに「臨在……のしるし」について尋ねている。イエス・キリストが王として在位していることを指して使われる言葉。キリストの臨在は,この体制の終わりの時代の初めに,イエスがメシアである王として目に見えない状態で即位した時に始まった。「臨在」と訳されているギリシャ語はパルーシアで,多くの翻訳で「来ること」という意味に訳されているが,字義的には「傍らにいること」という意味。キリストの臨在は,単なる瞬間的な到来や到着ではなく,ある期間にわたって続く。パルーシアが持つこの意味は,マタ 24:37-39で例示されていて,「ノアの時代……洪水前のその時代」と「人の子の臨在の時」が比較されている。また,フィリ 2:12でパウロはパルーシアを使って,「いる時」と「いない[時]」を対比している。(コ一 16:17の注釈を参照。)それでパウロが説明しているように,キリストのものである人たち,つまり聖なる力によって選ばれたキリストの兄弟であり共同相続人である人たちが天に復活するのは,イエスが神の王国の王として天で即位してしばらくしてからのこと。
終わり: または,「完全な(完了した)終わり」。(マタ 24:6の注釈を参照。)ここの「終わり」(ギリシャ語テロス)は千年統治の終わりのことで(啓 20:4),その時,「父である神」を揺るぎなく支持する謙遜なイエスはその方に「王国を渡」す。キリストの王国による千年統治は,目的を十分に果たし終えている。エホバと人類の間にこの副次的な政府が存続する必要はもはやない。また,アダムに由来する罪と死が完全に除き去られ,人類は買い戻されているので,買い戻す方としてのイエスの役割は終わる。(コ一 15:26,28)
死が除き去られます: または,「死が滅ぼされます」。直訳,「死が無効にされつつあります」。ここでパウロは,アダムに由来する罪とその結果が終わることを述べている。死を除き去るには亡くなった人を復活させることが欠かせず(ヨハ 5:28),パウロはこの文脈でその教えを力強く擁護している。とはいえ,死を完全になくすにはアダムに由来する罪の痕跡全ても除かれる必要がある。それでパウロは後の部分で,「死をもたらすとげ」である罪がイエス・キリストの贖いの犠牲によって取り除かれなければならないことを説明している。このように,復活と贖いによって神は死を滅ぼし,無効にする。パウロが後で言っているように,「死は永久にのみ込まれる」。(コ一 15:54-57)
服従します: 神の子であるキリスト・イエスは謙遜に統治権を手放して天の父に返し,エホバの最高の主権に服従する。そのようにして,イエスは父の統治の正当性に最大の敬意を表す。また,キリストは1000年間の見事な統治の終わりにも,人間として地上にいた時と同じように謙遜であることを示す。(フィリ 2:5-11。ヘブ 13:8)
こうして,誰にとっても神が全てになる: キリストが全ての統治権を天の父に返す時,エホバは再び全てのものを直接治める。完全な人類は,エデンでの反逆による損害の修復をする副次的な政府(メシア王国の政府)を必要としなくなる。贖い,仲介者,祭司職はもはや必要なくなる。人類は,エホバの息子や娘として自由を存分に楽しみ,天の父と直接コミュニケーションを取れるようになる。(ロマ 8:21)パウロはここで,イエスが「全ての政府,また全ての権威と力を除き去って」「父である神に王国を渡し」た後のことを聖なる力に導かれて書いている。(コ一 15:24)
死んだ者となるためにバプテスマを受けている: コリント第一 15章で,パウロは復活が確実であることを論じている。この文脈で,聖なる力によって選ばれたクリスチャンがキリストのように忠誠を保って死ぬという生き方へのバプテスマを受ける,つまりそのような生き方に専念するということを言っていた。その人たちは後にイエスと同じく天での命に生き返らされる。このバプテスマは,イエス自身が直面したような試練を含み,イエスのような死につながることが少なくない。(コ一 15:30-34)天に行くよう選ばれた忠実なクリスチャンは,天での命に復活させられるという希望を持っている。それでこのバプテスマは,マル 10:38でイエスが述べ,ロマ 6:3でパウロが述べたバプテスマと関連があるようだ。マル 10:38,ロマ 6:3の注釈を参照。
となるために: この表現はギリシャ語の前置詞ヒュペルの訳で,その語は字義的には「の上に」という意味だが,ほかにも幾つかの意味があり,文脈によって判断しなければならない。「死んだ者のためにバプテスマを受けている」といった訳をしている聖書もある。そのような訳を読んで,この節は生きている人が死んだ人に代わって,その人のためにバプテスマを受けることを言っている,と考える人もいる。しかし,聖書のどこにもそのようなバプテスマのことは書かれておらず,パウロの時代にそのような習慣があったという証拠もない。さらにこの理解は,バプテスマを受ける人は神のメッセージを「喜んで受け入れ」自ら「信じ」て「弟子」になる,ということをはっきり述べている聖句と合わない。(使徒 2:41; 8:12。マタ 28:19)
私がエフェソスで野獣と戦った: ローマ人は闘技場で犯罪者を野獣の前に投げ出すことがよくあった。この刑罰はパウロのようなローマ市民には科されなかったという学者たちの意見もあるが,野獣の前に投げ出されたり野獣と戦わされたりしたローマ市民がいたという歴史上の証拠がある。パウロがコリント第二の手紙で書いているのは,闘技場で文字通りの野獣に面した時のことかもしれない。(コ二 1:8-10)文字通りの野獣の前に投げ出されたのであれば,神が介入して救出したのだと思われる。(ダニ 6:22と比較。)そうであれば,これはパウロが宣教中に「死にかけ」た例の1つと言える。(コ二 11:23)一方,ここでパウロは比喩的な意味で野獣と述べていて,エフェソスで野獣のような人たちから反対されたことを言っていると考える学者もいる。(使徒 19:23-41)
食べたり飲んだりしましょう。明日には死ぬからです: パウロはここで,エルサレムの不従順な人たちの態度をよく表しているイザ 22:13から引用しているようだ。その人たちは,間もなく滅ぼされると分かっても悔い改めず,快楽の追求に身を任せた。パウロがこの言葉を引用したのは,復活の希望を否定する人たちの考え方と似ていたからかもしれない。例えば,エピクロス派のような人たちは復活を信じず,今のために生きることに集中していた。しかし,パウロが指摘しているように,復活は現実のものであり,クリスチャンが自己犠牲的な生き方を続ける十分な理由や動機付けとなる。(コ一 15:58)
悪い交友は良い習慣を台無しにします: または,「悪い付き合いは道徳心をむしばみます」。これはパウロの時代に使われたことわざや表現だったようで,他の聖句に見られる基本的な原則を伝えている。(格 13:20; 14:7; 22:24,25)パウロはこの言葉を引用して,復活という聖書の教理を受け入れない人たちとの不適切な交友を避けるよう仲間のクリスチャンに勧めた。(コ一 15:3-8。コ一 15:12の注釈を参照。)パウロは,十分な根拠があるこうしたクリスチャンの教えを退ける人たちとの交友は信仰を破壊することになり,他の人の良い習慣や考えを「台無しにする」(ギリシャ語フテイロー,「腐敗させる」,「破滅させる」という意味)恐れがあるということを知っていた。(使徒 20:30。テモ一 4:1。ペ二 2:1)コリントの会衆は深刻な問題をいろいろ抱えていて,その原因も少なくとも一部は交友を賢く選ばなかったことにあったかもしれない。(コ一 1:11; 5:1; 6:1; 11:20-22)
本心に立ち返ってください: パウロはここで,字義的には「しらふになる」という意味のギリシャ語を使っている。コリントの一部のクリスチャンは,復活を否定したりする背教的な教えに耳を傾けたので,クリスチャンとしてもうろうとした状態,酔ったかのように混乱したり迷ったりする状態にあった。それでパウロは,復活の教えをはっきり理解することによって目を覚ますように,つまり迷いを振り払うようにと勧めている。もうろうとした状態から病気や死に至る,つまり神との関係が一層弱くなったり失われたりする前に,そうする必要があった。(コ一 11:30)
まず死ななければ: パウロは天に行くよう選ばれたクリスチャンが天への命に復活させられることについて論じる際,地上での体が葬られることを種をまくことに例えている。種は植えられると,分解され,ある意味で死ぬ。そして,形や外見が全く異なった植物になる。(ヨハ 12:24と比較。)同じように,神によって選ばれ,神の子と共同の相続人となって天で不朽性と不滅性を与えられるクリスチャンは,まず死ななければならない。パウロはコ一 15:42-44で,まかれるという言葉を4回比喩的に使っている。そして,聖なる力によって選ばれたクリスチャンがどのように地上での体を放棄して復活によって天での体を得るかを述べている。コ一 15:38の注釈を参照。
神は……その種に体を与え: パウロは引き続き,聖なる力によって選ばれたクリスチャンの復活を種の成長に例えている。(コ一 15:36の注釈を参照。)パウロが例に挙げた小麦の小さな種は,成長後の植物とは全然似ていない。その種は種としては「死」んで,新たな植物となる。(コ一 15:36,37)同様に,天に行くよう選ばれたクリスチャンも,まず人間として死ぬ。その後,神はご自分の定めた時に,その人たちを全く新しい体で生き返らせる。(コ二 5:1,2。フィリ 3:20,21)その人たちは目に見えない体で復活し,天の領域で生きる。(コ一 15:44。ヨ一 3:2)
一つ一つの星の栄光も異なります: コリントの人たちの中には,血肉の人間が死んで天での体という別の種類の体で復活することなど信じられないと言う人がいたので,パウロは印象的な例を挙げている。例えば,星について述べている。1世紀の人たちも星を見て,明るさや色がさまざまであることがすぐ分かっただろう。パウロが言いたかったのは,そのように多様なものを創造した神であれば,人間を復活させ,天での体を創造することもできるということ。
朽ちないもの: 朽ちないもの(ギリシャ語アフタルシア)は,腐ったり腐敗させられたりすることのないもの,朽ち果てることのないものを指す。天に行くよう選ばれたクリスチャンは,死にゆく朽ちる人間の体で生き,忠実に仕え,死んでから,復活させられて天での朽ちない体を受ける。(コ一 15:44)「朽ちないものとして生き返らされ」るそのような体は,本質的に腐敗や滅びが及ばないもので,恐らく自力で存在できるものとなる。コ一 15:53の注釈と比較。
地上での: または,「肉体の」。ここで使われているギリシャ語プシュキコスは,プシュケーという語に由来する。ここでは,天での体と対比して地球上の生き物の体を表すために使われている。形があり目に見えて触れることができる,不滅ではない存在のことを指す。用語集の「プシュケー」参照。
天での体: または,「肉体でない体」。用語集の「プネウマ」参照。
最初の人アダム……最後のアダム: 節の前半でパウロは創 2:7から引用しているが(「生きた人になった」),「最初の」と「アダム」に当たる語を加えている。節の後半でイエスを「最後のアダム」と呼んでいる。そしてコ一 15:47で,アダムを「最初の人」,イエスを「第二の人」と呼んでいる。最初のアダムは命を与えてくれた天の父に不従順になったが,最後のアダムはその方に全く従った。最初のアダムは子孫に罪を広げたが,最後のアダムは人間としての自分の命を犠牲として与え,罪を贖った。(ロマ 5:12,18,19)その後,エホバはイエスを天での命に復活させた。(ペ一 3:18)イエスはアダムと同じく完全な人だったので,エホバはご自分の公正に反することなく,イエスの犠牲をアダムの子孫を買い戻すための「対応する贖い」として受け入れることができた。この贖いの犠牲によって,人間は最初のアダムが失った命の見込みを再び持てるようになった。(テモ一 2:5,6)それでイエスを「最後のアダム」と呼ぶのは適切。この言葉はイエスの後に別のアダムは必要ないことを示している。ルカ 3:38,ロマ 5:14の注釈と比較。
生きた人: パウロはここで創 2:7から引用していて,そこではヘブライ語ネフェシュが「人」と訳されている。そのヘブライ語は,字義的には「呼吸する生き物」という意味。用語集の「ネフェシュ」参照。
目に見えない存在: または,「肉体でない体を持つ存在」。ギリシャ語,プネウマ。用語集の「プネウマ」参照。
天で生きる方: 「最後のアダム」であるキリスト・イエスのこと。(コ一 15:45)
瞬く: ここで使われているギリシャ語(リペー)は素早い動きを表す。この文脈では,まばたきやちらりと見ることを指しているのかもしれない。最後のラッパが鳴る時,天に行くよう選ばれたクリスチャンが天での不滅の命に瞬時に復活させられることを示している。(テサ一 4:17。啓 14:12,13)
不滅性: 「不滅性」に当たるギリシャ語(アタナシア)は,ギリシャ語聖書に3回,コ一 15:53,54とテモ一 6:16に出てくる。基本的な意味は「死に支配されていないこと」。その語は,命の質,それが終わりのない滅ぼせないものであることを指す。天に行くよう選ばれたキリストの弟子たちは死んでいく人間として神に忠実に仕え,永遠の命を持つ天使たちを超えた存在として復活させられる。エホバは「滅びることがない命」を与え,その者たちへの信頼を際立った仕方で表す。(ヘブ 7:16)コ一 15:42の注釈と比較。
死は永久にのみ込まれる: パウロはイザヤが紀元前8世紀に書いた言葉を引用することで,アダムに由来する死がなくなることを神がずっと前から約束していたことを示している。イザ 25:8のヘブライ語本文には,「神は死を永久にのみ込む」とある。パウロはこの言葉を引用する際,直訳すると「勝利の中に」となるギリシャ語表現(ここで「永久に」と訳されている)を使っている。聖書翻訳によっては字義通りの意味を出して,「死は勝利にのみ込まれた」と訳している。しかし,このギリシャ語は文脈によって,「永遠に」,「永久に」という意味にもなる。セプトゥアギンタ訳のイザ 25:8や哀 5:20などで,「永久に」という意味のヘブライ語を訳すのに使われている。それで,特に引用元のヘブライ語本文の元の読みを考慮すると,コ一 15:54でこのギリシャ語表現を「永久に」と訳す確かな根拠がある。
「死よ,さあ,勝利してみなさい。死よ,さあ,とげで刺してみなさい」: パウロはここでホセ 13:14から引用している。ホセアの預言は,その時に不従順なイスラエル人が復活することを言っていたのではない。しかし,パウロがここでホセ 13:14を使っていることからすると,この預言は,死者が生き返り,墓(シェオル,またはハデス)が無力にされる時のことを言っていた。パウロはセプトゥアギンタ訳から一部引用していて,そこではこうなっている。「死よ,おまえの刑罰はどこにあるのか。ハデスよ,おまえのとげはどこにあるのか」。パウロは原語では,敵である死(コ一 15:25,26)に対して修辞的な質問を使っている。いわばこう言っている。「死よ,おまえが勝利することは二度とない! 死よ,おまえのとげはもはや役に立たない!」
とげ: ギリシャ語ケントロンは,サソリが持つような生き物のとげを指すことがある。啓 9:10で使われていて,そこでは象徴的なバッタが「サソリのように針がある尾」を持つものとして描かれている。ここコ一 15:55で,この語は敵である死によって多くの人が味わってきた痛みや苦しみを指して比喩的に使われている。(コ一 15:26)針を奪われたサソリが刺すことができないように,死は神の王国を受け継ぐよう復活させられて不滅性を身に着けた選ばれた者たちに対して何の力もない。(コ一 15:57。啓 20:6)キリストの千年統治の間に多くの人が復活して死が「火の湖」に投げ込まれる時,神はアダムに由来する死のとげを完全に取り除く。(啓 20:12-14; 21:4。ヨハ 5:28,29)
罪の力は律法によります: または,「律法が罪に力を与えます」。パウロはここでモーセの律法のことを言っている。その律法は何が罪となるかをはっきり示し,多くの罪深い行い,さらには罪深い態度を明らかにした。(ロマ 3:19,20。ガラ 3:19)この意味で律法が罪に力を与えた。その結果,イスラエル人は自分たちが罪深いこと,神の前で責任を負っていること,メシアを必要としていることを自覚するようになった。(ロマ 6:23)
それで,……しっかり立って,動じることなく: 「しっかり立って」と訳されているギリシャ語は,安定し,確固とし,ぐらつかないという考えを伝えている。コロ 1:23で同じ語が「動じない」と訳されていて,「土台の上にしっかり立って」という表現と並べて使われている。神とその約束への不動の信仰を持ち,一歩も引かないことが関係している。(ペ一 5:9)「動じることなく」という表現は似た考えを伝えていて,揺らがない,その場所から動かないものを指す。困難に遭い,信仰が攻撃されても,クリスチャンには船が停泊している所から流されないように留めておく「いかり」のような希望がある。(ヘブ 6:19)パウロは,「しっかり立って」と訳される語と「動じることなく」と訳される語を一緒に使うことで,コリントの兄弟たちに,「主の活動」で働くことが決して無駄にならないことを確信し,希望と信仰をしっかり持ち続けることを強く決意してほしいという願いを表した。
主の活動……主のために: この文脈でギリシャ語キュリオス(「主」)はエホバ神もイエス・キリストも指せる。ここで「主」がエホバを指すということは十分あり得る。なぜなら,パウロはクリスチャンの宣教について,「私たちは神と共に働く者」と述べていて,その宣教を「エホバの活動」と言っているから。(コ一 3:9; 16:10。イザ 61:1,2。ルカ 4:18,19。ヨハ 5:17。ロマ 12:11)また,イエスは宣教を収穫に例えて,エホバ神のことを「収穫の主人[または,「主」(ギリシャ語キュリオス)]」と言っている。(マタ 9:38)しかし,パウロはイエスが地上で先頭に立って行った宣教活動のことを考えていた可能性もある。(マタ 28:19,20)いずれにしてもクリスチャンの奉仕者は,良い知らせを伝える活動で主権者である主エホバと主イエス・キリストと共に働くという素晴らしい機会に恵まれている。